文豪・島崎藤村は明治30年9月に東京音楽学校選科に入学し、バイオリン、コーラス、ピアノを学ぶが、その後1年でやめてしまう。文筆家である島崎藤村が音楽に興味を持つようになり、東京音楽学校入学を決めた背景には次の要因が考えられる
1. 明治20年9月、藤村15歳のときに明治学院に入学し、そこで唱歌の授業を受け、賛美歌に親しむ。また、翌明治21年には恩師の木村熊ニ(英語教師であり、牧師でもあった)の洗礼を受け、クリスチャンとなり、より賛美歌に接する機会が増えた。
2. 明治25年10月、明治女学校の英語教師となり、教え子であった佐藤輔子(すけこ)に恋心を抱く。ちなみに藤村20歳、輔子21歳であった。輔子はオルガンを弾くのが好きで、東京音楽学校に入学したいという夢があった。その目的は、音楽家になることではなく、音楽を通して人格を高めたいということであったらしい。このことは輔子の日記に記述がある。輔子は卒業後別の男性と結婚したが、結局音楽学校に入学することなく病死している。藤村が輔子との交友から東京音楽学校を知り、自身も入学の希望を募らせていったことは想像に難くない。
3. 明治29年、仙台の東北学院に英語と作文の教師として赴任するが、その下宿先の娘(当時14〜15歳)がバイオリンを習っており、藤村はそのバイオリンを時々借りて弾いていた。その後明治30年に東北学院を辞めて帰京した後もバイオリンを弾きつづけていた。
4. 明治26年創刊の文芸雑誌『文学界』で藤村と同人であった上田敏が音楽評論を書いており、藤村は上田の評論に憧れを抱いていた。東京音楽学校に入学して、音楽に関する書物を読んだり、学校の講堂である奏楽堂で行なわれるコンサートを聴いたりして、上田のような音楽評論を書きたいと考えていたようである。
東京音楽学校の選科は、本科試験に落ちた生徒が予備校代わりに入ったり、教養として音楽を学びたい人が入ったりしていた。明治30年の詩集『若菜集』の出版により文学界で著名になりつつあった藤村にとっては、授業料が比較的安く、レッスンの時間を自由に設定できる選科のほうが好都合であった。また、当時は本科の受験資格が14歳以上20歳未満の年齢制限があったのに対し、選科は9歳以上で上限がなかった。
東京音楽学校の経験は、その後の作品にも生かされ、明治45年に刊行された連作短編集『食後』の中の『少年』は東京音楽学校が舞台となっており、そこに登場する『三年生の堀』とは瀧廉太郎のことである。藤村在学中には瀧廉太郎も本科生として学んでおり、奏楽堂で行われる演奏会に出演し、ピアノ演奏などを行なっていた。
(参考文献:滝井 敬子「漱石が聴いたベートーヴェン―音楽に魅せられた文豪たち」中公新書)