曲間に指揮者による解説が入った形でプログラムが進行しました。
大変興味深い内容ですので、
ここではその解説をほぼそのままで載せてあります。
一部文脈に違和感を感じるかもしれませんが、
会場の雰囲気を少しでも感じていただければと思い、あえて語り口調そのままです。
日時 | 2005年6月26日(日) 開場 13:30 開演 14:00 |
会場 | 羽生市産業文化ホール |
入場料 | 無料 |
ピアノ | 仲田 恭子 佐藤 ユカリ |
フランスの響き
ラシーヌ讃歌/フォーレ
パヴァーヌ/フォーレ
(解説)
ただいまフォーレという作曲者の作品2曲を続けてお聞きいただきました。私どもが和声会を立ち上げた際、最初にフォーレのレクイエムを取り上げたのですが、それ以来のフランスもの、ということになります。第1部はフランス系の作曲家の作品をお聞きいただくわけですが、次に、ケルビーニという作曲家を取り上げます。ケルビーニは生まれはイタリアですが、長くフランスに住んで、パリで死去していますので、フランスに分類しても間違いはないと思います。お聴きいただくのはこのケルビーニのレクイエムという作品です。レクイエムという言葉は、よく耳にされると思います。どんなものか平たく言いますと葬式のBGMです。日本ですとお経にあたるものと見ていただいて結構です。だいたい4〜50分かかるのですが、その中から今日はホンのつまみだけ演奏します。この曲は来年4月に次の定期演奏会でオーケストラとの共演による全曲演奏を予定しています。
西洋の代表的な宗教にキリスト教があります。先ごろローマ法王のヨハネ・パウロ2世が亡くなられて、今日は煙突から煙が出たとか、出ないとか、テレビ、新聞のニュースが賑わいましたけども、その宗派のカトリック教で人が死んだときにミサを行ないます。その時に奏でられるのがレクイエムという曲です。どんな内容かと申しますと、中世のカトリックでは人は亡くなった後、魂が飛んでいくところに、生前犯した罪の償いをする、煉獄という場があります。その煉獄で、一生懸命罪を償っている者に対して「どうか彼の魂よ安らかに」と神様にささげる祈りの歌がレクイエムなわけです。
余談になりますが、昔は天国と地獄しかなかったらしいです。布教を推し進めていたあるとき、あるところで「信じたヤツはいいけども、おまえさんが言うところの『神』を知らずに死んだ先祖はどうなるんだ」という質問が飛んだんだそうです。そこで考えて、折衷案的に「煉獄」を作ったわけです。「あなたのご先祖様もこの場で修行を積めば、天国にいけますよ」といういきさつからできたのが煉獄です。世界中でこういう賢い質問をした民族が2つあったそうです。最初にぶつけたのがゲルマン民族です。ゲルマンがこういう質問をしたときに煉獄ができました。それから何百年も経って大航海時代が始まって、地球をグルリと回るようになりました。遥か遠い島国で、まさかチョンマゲ結ったヤツが同じような質問してくるとは思わなかったんですね、はい。2つ目の民族というのが我が日本人です。なんて賢い民族でしょう、私達は。それは誇りに思っていただいて結構だと思います。
レクイエムはいろいろな作曲家が書いています。モーツァルト、ヴェルディ、フォーレの作品をいわゆる三大レクイエムと申しますが、それ以外にもいろいろあります。かのベートーヴェンはレクイエムを書いていないのですが、これから演奏しますケルビーニの作品を聴いたとき、「これだけの名作があるなら、なにも俺が書くことはない」といって、とうとうペンを取りませんでした。
今から3曲やりますが、1曲目は「Graduale」。キーワードの「レクイエム」という言葉を憶えてください。「安息」という意味です。「神様、どうか彼に永遠の光を・・・」。ルクス(lux)という言葉が出てきます。何ルックス、という明るさを表す言葉はここからきています。2曲目はラクリモーザ(lacrimosa)という言葉を憶えて下さい。「涙」という意味です。たとえ正しく生きたと自身を持った人でさえ、神の前に出たときオロオロしてしまう、裁きの日があります。ラクリモーザと出てきたら、神の御前で涙を流しているんだと思ってください。ちなみに仏教では、死後、魂の裁判があるらしいんですけども、それをとりなしてくれるのがお地蔵様だそうです。最後にピエ・イエズ(pie jesu)になるわけですけども、pie=慈悲深い、jesu=イエス様、だから、「慈悲深い主よ、神様よ」ということなります。レクイエム、ルクス、ラクリモーザ、ピエ・イエズ、この言葉さえ聞き取ることができれば、「あ、こんなこと言っているんだ」と、大体わかると思います。
レクイエムより/ケルビーニ
・ Graduale MP3形式:1,427KB
・ Lacrimosa
・ Pie jesu
クラリネット三重奏
三重奏曲 第2番より第2・3楽章/ペルゴレージ
クラリネット:福澤 修、米山 麻紀 バスクラリネット:村田 稔
三重奏曲 変ホ長調 Op.38より第1楽章/ベートーヴェン
クラリネット:福澤 修 バスクラリネット:村田 稔 ピアノ:渡辺 由希
マリンバ独奏
チャールダーシュ/モンティ
さくらさくら/日本古謡
グラナダ/ララ
マリンバ:高木 良二 ピアノ:仲田 恭子
組曲「四季」
・ 花(女声二部)
・ 納涼(独唱)
・ 月(混声四部)
・ 雪(混声四部)
(解説)
今皆さんにお聞きいただきましたのは、瀧廉太郎という、わが国を代表する作曲家が残した、組曲「四季」という、春夏秋冬を題したものです。実は先年、瀧廉太郎没後百年ということだったのですが、少し遅れ気味なんですが、今日は瀧廉太郎の作品を、ほぼ年代順に追って皆さんにお聞きいただければと思います。
瀧廉太郎の作品は意外とあまり知られていなくて、おそらく今日初めて聴いたという方もいらっしゃると思います。真っ先にお聞きいただきました「花」という曲、これは日本最初の合唱曲なんです。実はこれ以前に日本には合唱曲がなかったんです。たとえば「君が代」というのは同じ音を多くで歌う「斉唱」と申します。それに対して少なくとも2つ以上の違う音が同時に鳴ってハーモニーを奏でるものを「合唱」というわけです。ですので、「春のうららの隅田川〜」とお聞きいただきましたけども、この曲ができるまで厳密にはわが国には「合唱」という概念はなかったわけです。これは、皆さん初めて認識いただいたかもしれませんが、日本で最初の合唱曲です。
今日我々がやるにあたって、日本語の持つニュアンス、言葉の意味、これをできる限り忠実にしました。例えば「春のうららの隅田川」は「上り下りの船人が〜」となげやりに歌ってしまう人がいますが、「が」というのは所有格の「〜の」に置き換えることができるので、「船人『の』持っているところの櫂のしずく」という風になります。実はメンバーも最初、ほとんど考えなくて「船人が〜」と歌いました。かなりしつこくつついたのですが、どれだけ反映されているか、その辺をお聞きいただければと思います。
この曲を書くにあったって、瀧はこういうことを述べています。「これまでわが国には外国から持ってきた曲ばかりで、わが国本来のものがない。メロディを持ってきてそれに詩を後からつけたものがあって、原曲の持つ良さが損なわれている上に、どうもわが国の言葉を当てはめたとき、中途半端でよろしくない。だから俺は、日本人が日本の言葉で気持ちよく歌えるものを書くんだ」といってこの曲を書いたそうです。従いまして、この曲は初めに言葉があって、それに後から音符を付け足して一つの曲としたわけです。これは画期的なことなんです。作曲というのは元来そういうものなんです。
瀧廉太郎は明治12年(1879年)8月24日に東京で生まれています。それから明治27年(1894年)、日清戦争の年ですけども、彼は東京音楽学校に入ります。現在の東京芸術大学ですね。引き算すればわかりますが、15歳で東京音楽学校に入ってしまったのです。すごいことだと思うかもしれませんが、このころは、唱歌が歌えれば入れたんです。明治30年、瀧は18歳ではじめて作曲というものをいたします。最初に書かれたのが「日本男児」という曲です。明治30年といえば、日清戦争を反映したものが歌詞として取り入れられています。18歳で最初の曲というのはシューベルトと一緒なんです。シューベルトは31歳で亡くなるという若死だったのですが、瀧廉太郎はそれより早い23歳10ヶ月で死んでしまいます。シューベルトは13年間に600を超える歌曲を書いていますけども、瀧が作曲した年限は丸6年です。丸6年で書いた数を計算しますと、34曲あるんですね。これは1年に5.67曲になります。
ちょっと話はそれますが、明治30年といいますと、文豪・島崎藤村が東京音楽学校に入学しているんですね。そのころ「若菜集」という有名な詩集が出ていて、文人として名を馳せているんですが、どうしたわけか彼は東京音楽学校に入るんですね。東京音楽学校にはいろんなコースがあるんですが、彼は選科というのに入りまして、10ヶ月程度でやめてしまっています。ただ、後々「食後」という短編集の中の「少年」という小説で、音楽学校時代の体験を執筆しています。そのなかで上級生に「堀」という名の青年が出てまいります。彼は周りを不思議な魅力で包み込んでしまう。実はそれは瀧廉太郎です。島崎藤村は瀧廉太郎を見ているんです。多分会っていたんです。音楽と文学と畑違いのようですが。→島崎藤村と東京音楽学校
瀧廉太郎は先ほど申しました34曲の作曲の中で、ピアノだけの曲を2曲書いています。最初にメヌエットという曲をお聞かせいたします。これは日本最初の器楽曲といえると思います。お聞きいただけるとわかると思いますが、非常に日本的な感じがします。なぜかといいますと、じつは第7音(シ)がないんです。日本に古来伝わっている音楽というのはヨナ抜き音階といいまして、ドレミファソラシドの4つ目と7つ目がないんです。ドレミソラドとなります。先ほど「君が代」と申しましたけども、あれもたった1回シが出てくるだけです。ヨナ抜き音階にリズムをつけるとこうなります。(先生が北島三郎の「函館の女」の冒頭「は〜〜るばる〜きたぜ函館へ〜」を奏でました。ピアノのある方はやってみてください)だから日本的なんですね。ではメヌエットお聞きください。
メヌエット(ピアノ独奏)
(解説)
続きまして同じ時期に書かれました合唱曲を3つお送りします。最初は「四季の瀧」という曲ですけども、これは女性合唱のみで歌われます。先ほどからお話していますけども、この時代にはなかなか日本の曲というのがございませんでした。瀧や周囲の若い人達が、自分達の手で日本の音楽を、と青雲の志でいたんですね。瀧の二級先輩に東くめという女性がいまして、この人が卒業後に結婚しまして、その相手が幼稚園関係の仕事をされていたということで、幼稚園の教育を広げます。そこで、子供に歌を教えたいわけですが、当時は時代が時代ですから、歌詞が文語調なんですね。子供にはちょっと、ということで、子供が歌うのに適した歌を書かないかと持ちかけられたんですね。そんなコンビで作られたのが「四季の瀧」です。このコンビで作られた曲はほかにもいくつかあります。たとえば「もういくつ寝るとお正月〜」これは瀧廉太郎です。
そして、「箱根八里」。明治31年当時、女学校には唱歌という時間があったんですが、男子学生には歌を歌うという時間はなかったんですね。当時の中学校の校長50名ほどの有志が女学校に見学に行きまして、唱歌の時間はこんなにいいものかと、痛く感動しまして、男子校でもやろうじゃないかとなりました。ところが、当時はあまり音楽が普及しておらず、適当な曲がないんですね。それで、当時すでに名を成していた音楽家に100曲ほど依頼するんですがまだ足りない。そこで、公募という形でもう100曲追加しようということになります。一人3曲まで応募可能で、瀧廉太郎は応募しました。で、3曲とも見事合格しました。3曲はこれからお聞きいただく「箱根八里」、そして、「豊太閤」「荒城の月」です。1曲に対して賞金5円、瀧廉太郎は15円を懐にしました。この15円の使い道ですけども、世話になっていた下宿のおばさん、里の両親にささやかな贈り物をしまして、あとは全部友達におごってしまいました。しるこ屋にいって、しるこを食いまくったんですね。後年、瀧廉太郎が亡くなったあと、彼の上着のポケットからは、しるこ屋からの領収書が束になって出たそうです。この「箱根八里」「荒城の月」「豊太閤」が出版されてお披露目されたのが、ライプツィヒに留学のために船出する1週間前でした。非常にあわただしい20代前半といいますか、10代後半といいますか、そういうときに書かれた曲です。
次に、「友の墓」。これは先ほど申しましたけど、当時日本には独自の曲がなかったので、外国から曲を借りてきて、それに言葉をつけて歌いました。「友の墓」というのもやはり、外国からの曲なんですけども、瀧廉太郎「和声」とされています。和声というのは、一つのメロディーに1つ上とか2つ下とか対旋律を考えて、1本の声を複数階にするんですね。単旋律をハーモニーにして楽しむ合唱形態、それを和声、和声付けといいます。これは瀧廉太郎の修行時代を知る、学術的にも興味深い作品だと思います。3つ続けてお聞きください。
四季の瀧(女声二部) MP3形式:831KB(1番のみ)
箱根八里(男性斉唱)
友の墓(混声四部)
(解説)
いま、瀧が留学前までの作品をお聞きいただきましたけども、そこまでの彼の人生は順風満帆だったわけですね。彼は1901年、明治34年にドイツのライプツィヒに、3年間の音楽留学を命じられるんですね。この年の4月に、出発いたします。ドイツに着いたのは6月7日、2ヶ月間船旅を経て、ドイツに入ります。それで、ライプツィヒ音楽院に入ったのが10月なんです。つまり彼は四ヶ月間必死で受験勉強するんですね。先ほどお聞きいただきました「メヌエット」、あれは先ほど申しましたが、2つあるピアノ曲の一つです。あの楽譜は日本で書いているんですが、ライプツィヒに持っていっているらしいんですね。そこに落書きがあるんです。和声の時間に機関車の落書きをしていたらしいんです。瀧廉太郎はのちに肺病を病み、時代が時代でしたから彼の遺稿というのはほとんど焼かれてしまっています。でも残っているものもあり、例えば最初にお聞きいただきました「花」「納涼」などのオリジナルが大分市役所に保存してあります。ここからちょっと悲劇なんですが、10月に音楽学校に入学していますが、翌月11月25日に風邪をひくんです。感冒ですね。その1週間後、入院をします。ここでちょっと飛んじゃいますけども、翌明治35年にもう帰国なんです。本来ならば3年いるべきところを1年で帰国命令が出て、帰ってこざるを得ないんですね。計算しますと、留学期間は14ヶ月なんですが、そのうち8ヶ月は闘病生活なんです。本当にドイツに死にに行ったようなものなんですね。本当に哀れでなりません。彼は日本に帰ってきてからたった4曲しか書けませんでした。4曲のうち3つが合唱で、1つがピアノ曲です。先ほど生前2つ遺したピアノ曲と申しましたけども、残った一つをこれから聴いていただきます。日本に戻ってから最初の3曲は東京で書いています。いよいよ体が悪くなって郷里の大分に引っ込みます。そこで最後の1曲が書かれます。プログラムにありますけども「憾」という曲なんですけども、これで「うらみ」と読みます。「うらみ」にはいろんな字がありますが、時のなさが残念、時間のなさを悔やむ、そういう気持ちが表れています。死の4ヶ月前の作品です。お聞きください。
憾(うらみ)(ピアノ独奏)
(解説)
瀧廉太郎というとどういう曲を思い浮かべますか?有名なのは「荒城の月」ですね。皆さんがよく耳にされるのはこういう曲です。
でもこれは、「赤とんぼ」などの山田耕筰がこうしてしまったものなんです。実は瀧廉太郎が書いたのはこちらなんです。
どうちがいますかね?まず拍が違います。4拍子になりますと1拍目と3拍目に強拍、やや強拍という強さを感じます。これでいきますと「千代松の枝」の部分は、「ちよのまつ〜がえ〜」というふうに、語尾が強調されてしまいます。今の子供のように「うっそ〜」「マジ〜」のように、非常に汚くなってしまいます。ところが、オリジナルの2拍子ですと4つ目が非常に収まりがよくなります。あと、冒頭の「はなのえん〜」の部分は「え」の音が違います。おそらく初めてお聞きになる方もいられると思いますが、瀧廉太郎自身は最初からこう書いていました。ところがちょっと理屈っぽく、西洋音楽をかじったものにはわかるんですが、短調のこの部分が半音上がるということは音楽の理論上ありえないことなんです。それを瀧廉太郎はやってしまっているんです。音楽の理論よりも日本人の持つ独特の節回しのほうが優先されたと思います。この場所がこのようにうら悲しく、もの寂しくなるのはジプシーの音楽に共通します。もし日本人が胸を張って西洋に音楽を持っていこうというときに、こういう音楽を持っていくと「なんだ、日本人のやっていることはジプシーの亜流じゃないか」と言われかねない、ということで、論理性を重んじるお偉い方がこれ(♯)を取るべきだ、と瀧廉太郎に言ったそうですが、瀧は相手にしなかったそうです。これでは海外に通用しないだろう、ということで、山田耕筰が後年、西洋の論理に基づいて皆さんご承知のような形に修正したというわけです。今日は瀧廉太郎が書いたオリジナルでお聞きいただきます。
ちなみに、作詞は土井晩翠(つちいばんすい)ですが、土井と瀧は面識がありませんでした。しかし、瀧がライプツィヒで肺病を患い、帰国命令を受けての帰国の途で、ロンドンに寄港した際、偶然にも土井もロンドンにやってきます。瀧がロンドンにいることを聞いた土井はわざわざ瀧を訪れ、初の対面をし、病気見舞いをすると共に自分の詩に曲をつけてくれた礼をしたのです。
この曲の瀧廉太郎自筆の楽譜は、先ほど申しましたように、彼が肺病を患って亡くなったために燃やされてしまいました。したがって、現在世に広まっている楽譜はのちに山田耕筰が編集したものであり、オリジナルとは異なるのです。もし希望がかなうものであれば、是非オリジナルを見てみたいものです。本日は、ほぼオリジナルの伴奏譜で演奏いたします。
荒城の月(混声四部) MP3形式:790KB(1番のみ)
水のゆくへ(混声三部)